清野裕司のマーケティング・コラム/風を聴く (第100話)

第100話:マーケターではなくマーケティング・スタッフの道を歩みます。

 企業人との会話の中で、自分自身の職務を表現する言葉の一つに「マーケター」という表現があります。最初に耳にしたときにはよく理解が出来ませんでした。そもそも何をする人なのかが分からなかったのです。今も良く分かっていません。マーケティングを実践する人なのでしょうか。

 マーケティングという言葉を聴くと、浮かんでくるのは企業の活動、特にモノを生み出し・販売する方法を効率的に組み立てる、さまざまな手段と理解される場合が多いと思います。そこで、顧客の声を聞く調査を実践する役割、モノづくりのための開発を進める役割、販売をより効率よく効果を高めるための販売促進や広告手段を考え実行する役割が必要になります。その手法を理解しそれぞれを実践する人が、マーケターなのでしょうか。してみると、ひとりで全てを実行することは不可能であり、多くのマーケターが登場してくることになります。

 マーケティングは「Market+ing」。直訳すれば「市場の現在進行形」です。現在の暮らしは、Market(市場)の複合体の中で営まれています。つまりマーケティングは、自分が生きている「今」という時と場の中で、さまざまに起きる現象や事象を自分で「解釈」し、「決定」し「対応」する思考と行動の体系です。企業の経済行為を効率よく運営する手段の体系に止まりません。企業も法人としての人格を持っています。ということは、企業自体は変化を解釈し、決定し対応する主体者であり、マーケターということになります。

 全体の一部を担当するためには、部分最適を求める眼と共に、全体最適を見る眼が必要になります。だからこそ、マーケティング力とは、自らが考え、決定し実行する力をつけることと理解できるのです。そのごく一部を担務する人たちをマーケターと言ってしまうと、幅が広すぎて理解が進みません。一言で全てを言ってしまおうとするあやふやさもあります。

 私の場合、自分の仕事は「マーケター」ではなく、マーケティング実践の多くの場面に参画し、企業活動の円滑化を支援する「マーケティング・スタッフ」と心得ています。(第101話に続きます)

法政2015年最終講義:2015.12.21

清野氏 法政大学 講義

株式会社マップス 代表取締役 清野 裕司

Eメール: maps@mapscom.co.jp

URL: http://www.mapscom.co.jp

books

清野裕司氏の書籍はアマゾンページからご購入いただけます。

(写真をクリックしていただくとアマゾンページに移動します)

清野裕司のマーケティング・コラム/風を聴く (第99話)

第99話:無関心・無表情を「BUSU」と言います。

 いつからだろうか、この国に住む人たちが発する言葉が少なくなってしまったように思います。身の回りに起きていることに無関心になってしまった。そして、無表情になってしまいました。ほぼ毎朝のように、雑踏の中を決まった通勤路を行きますが、東京では、好むと好まざるとにかかわらず多くの人と接触してしまいます。大きな荷物を持つ時には、荷物同士がぶつかってしまうこともあります。その折の、お互いの振る舞い方が、自分の知る昔の光景と明らかに異なります。無言の状況が続く。ちょっと不愉快そうに顔をしかめる人もいますが、多くは無表情。

 何も好き好んで人にぶつかっているわけではありません。他者の荷物に悪意を持ってぶつけているわけでもありません。不可抗力のなせる業です。しかし、お互いが一瞬でもちょっと嫌な気分になっています。であれば「失礼しました」や「ごめんなさい」とお互いが声を発し合っても良さそうです。満員電車で目的の駅で降りようとする。ドアの周りには、その場所から何が何でも動こうとしない人がいます。ちょっとした動きで、人の流れは圧倒的に楽になるにもかかわらず、微動だにしません。摩訶不思議な光景です。

 他者やその時の状況を見ようとしません。無関心を装う人に多く出会います。自分さえ良ければ・・・の思いなのでしょうか。人は、人との関与によって初めて「人間」になる筈ですが、どうやらその考えがあてはまらなくなってしまったのでしょう。

 無思慮・無感情・無表情の人を「ぶす」と言います。感情の高ぶりや、心の動きは普通であれば表情に出ます。それが無い状況は、まさに動きの無い能面そのものです。能面も、その動きによって感情を知ることが出来るのですが、それすらもありません。

 気に掛ける範囲が狭くなったのでしょうか。そのようなことすら思わなくなってしまったのでしょうか。今、この国に「BUSU」が多くなってしまいました。前を向いて、次を信じて汗する国民性の喪失でしょうか。今朝も何人かの「BUSU」に出会った自分が、せめて「BUSU」にならぬようにと気にする時です。(第100話に続きます)

法政2015年最終講義:2015.12.21

清野氏 法政大学 講義

株式会社マップス 代表取締役 清野 裕司

Eメール: maps@mapscom.co.jp

URL: http://www.mapscom.co.jp

books

清野裕司氏の書籍はアマゾンページからご購入いただけます。

(写真をクリックしていただくとアマゾンページに移動します)

清野裕司のマーケティング・コラム/風を聴く (第98話)

第98話:「大人顔の子ども」に多く出逢うようになりました。

 毎年のように、その時々を賑わすヒット商品が誕生します。短命のものもあれば、社会的に常態化していつの間にやら定番化するものもあります。一時的な風に敏感に反応するのは、好奇心旺盛な子どもであることが多いもの。世情の理(ことわり)を知ってしまった大人にとってみれば「たわいない」ものでも、子どもの眼には新鮮に映るものがあります。

 何事にも旺盛な好奇心を発揮して、新しいものを生み出そうとする活力を見せることは、大人になった途端に忘れ去ってしまう感性かも知れません。しかもその活力が、社会的な新しい動きを生み出そうとするエネルギーに転換されるなら、その活力に期待がもてます。

 しかし、最近の子どもの活力はどうも違うところで発揮されてしまっているように感じることがあります。なぜか訳知り顔をした子どもがいます。無邪気に飛び跳ねることもなく、好奇心を発揮して未知なる世界に飛び出そうとせぬままに老成の境地に至ってしまったような顔。「なんでだろ~なんでだろ~」と繰り返す歌もありましたが、そのような疑問詞が聞こえてこない社会になっているように感じさせます。

 「子ども心を持った大人」は愛嬌があるもの。分かった振りをしない。素直に不思議と思う心をぶつけてくるからです。その逆はどうにも性質が悪いものです。したり顔で世の中を見ようとする。人と人との関わりに、それ程の経験を持たぬが故に、自分の行動を善として動こうとする。横柄なのです。我が物顔で街を闊歩する。しかも体つきが、栄養のバランスが良いのでしょう、大きいのです。世の理を伝えようとしても、聞こうとしない。横着なのです。

 「身体だけが大人になってしまった子ども」。体格の成長と、思考力の生育とのアンバランスがあるようです。

 市場を細分化してみる際の尺度も、どうやら年齢によるものだけではすまなくなってきています。大人と子どもの、マインド面でのインデックスが必要な時代の風を感じます。(第99話に続きます)

法政2015年最終講義:2015.12.21

清野氏 法政大学 講義

株式会社マップス 代表取締役 清野 裕司

Eメール: maps@mapscom.co.jp

URL: http://www.mapscom.co.jp

books

清野裕司氏の書籍はアマゾンページからご購入いただけます。

(写真をクリックしていただくとアマゾンページに移動します)