No.40 議論・分析などどうでもいいこともあるものだ

母は48歳の時脳溢血で倒れそのまま逝ってしまった。クリスマスイブの前日の夜だった。料理の途中で意識を失い、救急車を呼んで大学病院に連れて行ったが、もう手遅れのことだった。

父は母の死に際の状況を多くの人に語り続けた。葬儀に参列した人たち、一人一人に同じ内容で一語一句違えず話しては、聞く人の涙を誘ったものだ。それは葬式が終わった後も母の話になると必ず行った。

私たち子どもはそんな父を見て、ならば母が生きている間にもっと優しくしてあげればよかったのにと、反感を抱きながらうんざりして聞いたものだが、多少の哀れみも感じていたために何も言わなかった。

父は高等小学校を出るとすぐに大工の修行に出たものの、棟梁や先輩たちに口やかましく言われるのがいやに嫌になって長崎の親戚を頼り三菱の職工になった。その後、母と見合い結婚をして私が生まれたが、その時にひどい胃潰瘍を患い大手術をした。

しかし運がいいことに、造船所の職工から設計に移ることができた。100人の募集で2人しか設計に入れなかったからかなり運がよかったのだろう。会社が病気のことを配慮してくれたのかもしれなかった。本人は字が上手かったから入れたと豪語していたが、確かに字は達筆だった。

学歴のない中、課長が東大出の設計課では大変な思いを続けてきたのは察するに余りある。高等小学校では英語を教えていなかったのか、中学生用の英語辞書で何やらひそかに勉強していたみたいだった。またよく私に、会社員だけにはなるななどと言っていたのをよく覚えている。

そんなこんなでで、ストレスがたまったのか、酒の量も増え、毎晩飲み歩く時期もあって夫婦げんかも絶えない時期があった。しかしそれも長くは続かなった。父は脳溢血で倒れてしまったのだ。それからの数年間は母が大変な思いをして最後の人生を送った。

よく母は次に生まれるときは花でいいなんて言っていたぐらいだから、よほどつらかったのだろう。父がある程度回復して会社に通えるようになったころだった。今度は母が突然死んでしまった。

父は母の死後、何回も何十回も何百回も母の死に際のことを死ぬまで語り続けてた。まるで壊れたロボットのように。

その時の思いや後悔を哲学したり、分析したり、昇華したりという高等な思考技術を一切用うすべをしらない父はただただ物語るのみだったのだろう。今思えば、そのような高度な訓練も受けていない父にとって、物語るということだけが、何か大切なことを噛みしめるために必要だったのかもしれない。

それが母に対する愛情なのか、懺悔なのか、後悔なのかはわからないが、何かを心にとどめ置くための唯一の手段だったのだろう。今では誰もが自分が経験した事を大反省したり、意味を考えたり、分析したり、教訓化したりして、成長しようとする。しかし、ただただ物語ることの重要さもあるのではないかと、父が生きた年を超えた時点で思った次第だ。

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