No.35 どうしても理解を超えるものは存在するのだ。

(問)なぜ月と太陽は同じ大きさに見えるのだろうか。
(答)それはそれぞれの距離がちょうど同じ大きさに見えるところに地球があるから。
(問)なぜ地球はそのような距離に位置するのか。
(答)偶然である。
世の中、どんなに理詰めていっても、結局最終的には偶然という答えに突き当たるものだ。
偶然はどうしても理解をはるかに超える部分であり、神の存在を作る。

きっと、どんなに解明し理解しようとしたところで、できないのは偶然というシステムがこの世界を支配しているからだ。仏教ではそれを「自然(じねん)」というだろう。頭で解明し理解できる部分を「理」と呼び、偶然に従わざる得ない部分を「自然(じねん)」という。この自然を受け入れなければ、この世の中は実に住みにくい世界になろう。

科学の限界は「理」に基づくため、どうしても偶然をうまく説明できないことだ。もしこれを科学が説明しようとすれば、確率の世界に落ち着くしか今のところない。東京タワーの天辺から、枯葉を一枚落としてどこに落ちるのかは、落ちる範囲はわかっても落ちる場所はわからない。しかし確率を発見した科学はやはりすごいと思う。

人間は周りの現象を大脳皮質で「理」として受け入れるが、「偶然」はどこで受け入れるのだろうか。きっとそれは古くからある脳の部位だろうか。生物が誕生して生体の組織化の中で最初に作られた神経回路の集中部位だろうか。たとえ大脳皮質だとしても、それは決して「理」で測る部分、あるいは同じ神経パターンではなさそうだ。むしろ「情」が生まれる部分かもしれない。

「偶然・自然(じねん)」は「情」によって人間は認知しているのかもしれない。「情」によって、脳内にある乱数表を用い、偶然の現象をある確率で理解する。十中八九とか万が一とか言って自然(しぜん)と受け入れるだろう。それは一方で偶然ではあるものの必然性も感じる能力である。そうでないと偶然に対して、また今の環境や自分の立場に対して、なぜなぜの理詰めなってしまい疲れ果ててしまう。

これは将来を予測するのがどこまで可能かという問題にもつながる。人は将来何が起こるのか不安である一方で未来に対し密かな期待も持つ。今のBeと未来のBeは何でつながっているのだろうか。何かでつながっているから、もし今の自分がタイムスリップして過去に戻ったならば今を変えられるかもしれない。タイムスリップする前の今と後の今とは同じ時間軸上にはないだろうが。

したがって、将来は今があって将来であり、過去があって今があるという当たり前の話になる。過去は「理」によって理解できるが未来は「理」だけでは理解できないものだ。我々ができることといえば乱数表を基に探ることぐらいだからだ。あるいは何もせず、流れに任せて生きるってことは可能だ。それも悪くない。だって何かやったからって未来が大きく変わるとも言えないからだ。

未来は変えられないのか。いいや、幾万通りの未来があるだけだ。台風の予想進路図のように、未来は幾万通りの確率であり、未来が今となって今が過去となっても、常に未来は乱数表に支配されている。人間に当てはめて考えるとどうか。今を生きるとは何か。過去を生きたとは何だったのだろうか。そして未来に対してどのように向き合わなければならないのか。

そもそも我々は未来を思うように創ることができるのか。そのヒントは生物の進化の中にあるような気がする。人間の英知は未来を思い描くように創るために生まれた。しかし一方で、教養とは知らないことを知ることだと誰かが言っている。私は教養とは明日を思い描き創造しようとする力なのだと思う。教養がないとは今日の延長を明日も生きることだ。もちろん教養のない生き方もありだ。

しかし生物は太古から今に至り進化してきたし、人間は進化を進歩に変えてきた。生物は過去に起こったことを理解し、今という環境を乗り越えるために進化し、未来を生き続ける。もし地球に隕石が衝突して人類が完全に滅んだとしても、地中深く生き残った微生物が、何十億年と進化し続け人間的な生物を再び作り上げるだろう。

これこそが、まさに「理」でありまた「自然(じねん)」である。つまり生物にとって今を生きるとは明日を創るということなのだろう。そのため、過去を理解し未来を創るために今を生きているに過ぎない存在なのだろう。つまり今を生きる「命(いのち)」とは、言い換えると明日を創る「命(めい)」いわばミッションなのだ。なぜならば生物とは永遠に命を渡して生き続けるシステムなのだから。

未来は確定できない乱数表の中に存在する。「理」を超えている世界だ。だから生物は「情」によって未来を創造してきた。「理」は過去を考察し、「情」は未来を想う。

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