No.36 神風はもう吹かないのか。

相撲ファンとしては、偏った意見かもしれないがあえて言いたい。白鷗と貴乃花親方の確執は日馬富士の暴行事件後も収束することなく深まるばかり。そりゃ仕方がない。元の思想と日本の思想は違うんだから。日は「和」を重んじる。強いものは弱いものを助け、育てる義務を持つ思想だ。元は強いものがそれだけで称賛される文化を持つ。

子供のころ、誰が決めたか知らないが「がめんちょろ」というシステムがあった。まだ私の幼いころは、上は小学生高学年から下は幼稚園までが一緒に狭い場所で遊んでいた。そういう記憶が鮮明に今でも残っている。同級生だけで遊びだしたのは、小学生の高学年になったころからだったかもしれない。

小学生と幼稚園では1年2年違うだけでも体力の差は歴然である。ところが、その当時鬼ごっこにしろ、コマ回しにしろ、かくれんぼにしろ、メンコにしろ、いつも上級生は下級生に対しハンディをくれる。上のものにとってはハンディがないと、勝ってばかりで面白くなかったのだろう。しかし下のものは、たまに上級生に勝つことがあった。実はそれがすごい自身にもなったし、いつもは威張っている年齢が違う上級生が友人のような気にもなった。

昔の角界も実は、こんなもんではなかったのかなと思う。横綱の品格とかよく言われるが、今思えば「がめんちょろ」を許してくれた上級生の姿と重なるような気がする。一時角界で、八百長問題が出た。確かに何試合も何場所も数をこなさなければいけない格闘技の世界では、ガチンコでぶつかり続けると、けがや故障は絶えないだろう。格闘技者は若くして引退になってしまう。

しかし、試合はもちろんガチンコでなくてはならない。これなくしては競技は、観客が興ざめしてしまう。相撲は演技ではなく、真剣勝負でなくてはいけないのだ。ならば、早い話、場所数を減らすか、あるいは力を抜くとかしなければ、どんな頑強な力士も短命で終わってしまうだろう。本当の実力も発揮できず、怪我や故障で相撲人生を終わらせるだけの力士も出てくるかもしれない。老齢のレスラーが実に味があるものだが、お目にかかる機会もなくなってしまう。

そこで言いたいのだが、白鳳は日本人から見ると、そんなに偉いのかって話になる。朝青龍もそうだったが、優勝回数だけで力士の偉さが決まるのか。横綱は確かに強い。しかし、横綱は、強さだけで横綱でいいのか。本当の横綱の強さがあるのではないか。相撲にはいろんな技や手がある。記録を伸ばすために、横綱はどんな手を使ってもいいのだろうか。もちろんルール上は何の問題もないとしても、勝てば官軍じゃ。なんかさみしい。

勝てばそれでいいのだろうか。勝者が天下を取り続けるのは元の文化だが、日本は同じ勝ち方、負け方にも、カッコよさ、潔さが付きまとう文化があるような気がしてならない。「海ゆかば」ではないが、負け自体に美学がある。実質は大事だが、カッコよくないといけてないのだ。絶対勝てる相手に勝ってもあまりカッコよくない。たとえば自分の得意手は使わず勝つのだとひそかに決め、土俵に向かうのが強者の心意気なのかもしれない。もちろんガチンコ勝負なので、得意手を使わなければ、強者というども小さな気のゆるみやミスで弱者に負けるかもしれない。

しかし負けは負け、技やキャリアではなく気持ちで勝負して負けたのなら、後輩を評価するのが強者の誇りだ。弱者にとってはたとえ勝ったとしても手を挙げて喜ばない。おごりなき勝利といういう実にいい勝ち方を学ぶ機会にもなるだろう。それで、一場所ごとに、強者は強者なりの試練を乗り越え、乗り越えた分、下のものに何かを残す。優勝は記録ではなく、どれくらいいい試合をしたかだ。

1984年のロスオリンピック、山下選手は足を負傷していた。エジプトのラシュワン選手は怪我している山下選手の足を終始責めず、最終的に金メダルを逃してしまう。彼は柔道を通して日本を知った選手だった。

モンゴル人はアングロサクソン人に先駆け、全世界を征服した偉大なる民族だ。でも世界を征服した民族には、正直どことなくついていけない自分がいる。再び、目の前の元の襲来に対して神風は吹くことはないだろうか。

No.35 どうしても理解を超えるものは存在するのだ。

(問)なぜ月と太陽は同じ大きさに見えるのだろうか。
(答)それはそれぞれの距離がちょうど同じ大きさに見えるところに地球があるから。
(問)なぜ地球はそのような距離に位置するのか。
(答)偶然である。
世の中、どんなに理詰めていっても、結局最終的には偶然という答えに突き当たるものだ。
偶然はどうしても理解をはるかに超える部分であり、神の存在を作る。

きっと、どんなに解明し理解しようとしたところで、できないのは偶然というシステムがこの世界を支配しているからだ。仏教ではそれを「自然(じねん)」というだろう。頭で解明し理解できる部分を「理」と呼び、偶然に従わざる得ない部分を「自然(じねん)」という。この自然を受け入れなければ、この世の中は実に住みにくい世界になろう。

科学の限界は「理」に基づくため、どうしても偶然をうまく説明できないことだ。もしこれを科学が説明しようとすれば、確率の世界に落ち着くしか今のところない。東京タワーの天辺から、枯葉を一枚落としてどこに落ちるのかは、落ちる範囲はわかっても落ちる場所はわからない。しかし確率を発見した科学はやはりすごいと思う。

人間は周りの現象を大脳皮質で「理」として受け入れるが、「偶然」はどこで受け入れるのだろうか。きっとそれは古くからある脳の部位だろうか。生物が誕生して生体の組織化の中で最初に作られた神経回路の集中部位だろうか。たとえ大脳皮質だとしても、それは決して「理」で測る部分、あるいは同じ神経パターンではなさそうだ。むしろ「情」が生まれる部分かもしれない。

「偶然・自然(じねん)」は「情」によって人間は認知しているのかもしれない。「情」によって、脳内にある乱数表を用い、偶然の現象をある確率で理解する。十中八九とか万が一とか言って自然(しぜん)と受け入れるだろう。それは一方で偶然ではあるものの必然性も感じる能力である。そうでないと偶然に対して、また今の環境や自分の立場に対して、なぜなぜの理詰めなってしまい疲れ果ててしまう。

これは将来を予測するのがどこまで可能かという問題にもつながる。人は将来何が起こるのか不安である一方で未来に対し密かな期待も持つ。今のBeと未来のBeは何でつながっているのだろうか。何かでつながっているから、もし今の自分がタイムスリップして過去に戻ったならば今を変えられるかもしれない。タイムスリップする前の今と後の今とは同じ時間軸上にはないだろうが。

したがって、将来は今があって将来であり、過去があって今があるという当たり前の話になる。過去は「理」によって理解できるが未来は「理」だけでは理解できないものだ。我々ができることといえば乱数表を基に探ることぐらいだからだ。あるいは何もせず、流れに任せて生きるってことは可能だ。それも悪くない。だって何かやったからって未来が大きく変わるとも言えないからだ。

未来は変えられないのか。いいや、幾万通りの未来があるだけだ。台風の予想進路図のように、未来は幾万通りの確率であり、未来が今となって今が過去となっても、常に未来は乱数表に支配されている。人間に当てはめて考えるとどうか。今を生きるとは何か。過去を生きたとは何だったのだろうか。そして未来に対してどのように向き合わなければならないのか。

そもそも我々は未来を思うように創ることができるのか。そのヒントは生物の進化の中にあるような気がする。人間の英知は未来を思い描くように創るために生まれた。しかし一方で、教養とは知らないことを知ることだと誰かが言っている。私は教養とは明日を思い描き創造しようとする力なのだと思う。教養がないとは今日の延長を明日も生きることだ。もちろん教養のない生き方もありだ。

しかし生物は太古から今に至り進化してきたし、人間は進化を進歩に変えてきた。生物は過去に起こったことを理解し、今という環境を乗り越えるために進化し、未来を生き続ける。もし地球に隕石が衝突して人類が完全に滅んだとしても、地中深く生き残った微生物が、何十億年と進化し続け人間的な生物を再び作り上げるだろう。

これこそが、まさに「理」でありまた「自然(じねん)」である。つまり生物にとって今を生きるとは明日を創るということなのだろう。そのため、過去を理解し未来を創るために今を生きているに過ぎない存在なのだろう。つまり今を生きる「命(いのち)」とは、言い換えると明日を創る「命(めい)」いわばミッションなのだ。なぜならば生物とは永遠に命を渡して生き続けるシステムなのだから。

未来は確定できない乱数表の中に存在する。「理」を超えている世界だ。だから生物は「情」によって未来を創造してきた。「理」は過去を考察し、「情」は未来を想う。