No.34 小津映画から見るコミュニティー

小津監督の映画の中に、昭和40年代の都市型コミュニティーを生き生きと描いている。会社では役職に就く年齢の親父たちなのだが、学生時代の旧友の葬儀に集まって、先立たれた妖艶な奥さん(原節子)とその娘のことを話す場面から映画が始まる。

実に面白いのは、恋などとうの昔の話だったのが、大の大人たちは、奥さんや年頃の娘さんの話をするうちに何やら、色めき立ち始める。娘の婿候補に会社の部下を進めたり、あいつは性格がよくないとか、自分の恋愛相手を探すがごとく、いい大人たちが色めき浮つく。

人の娘の世話などは今ではあまり見られない風景だろう。余計なお世話に過ぎないのだから。小津は映画をハッピーエンドで終わらせる。大人たちは、なんやかやと言いながら、結婚などまだ早いと思っていた娘をその気にさせ、うぶな男の尻を叩き、娘は恋愛し結婚する。

ひと昔の村では、村長の世話や一家の家長の一存で、見合いもなしに結婚させられていた時代からすると、都会はスマートなのか世話する大人たちの嫌味もない。それより、とうの大人たちが、人の娘の世話話で色めき立つのが面白かった。

昭和40年代の日本はまだ都会でも、家族をひと回り超えたコミュニティーが存在していたのだ。今は核家族が進み、嫁さんは亭主の友人や会社の同僚が家に来ることを拒絶する。それが、果ては定年離婚、孤独死とつながっていってるのかもしれない。

コミュニティーとは、誰それの息子が大きくなったとか娘がどこそこのに嫁にいったとか、身近な人を肴に、集まって酒を飲めることかもしれない。最近では腹立つ上司の悪口を言う飲み会すらなくなりつつある。

コミュニティーが単なるブームでなく必要とする文化的システムとすれば、昔のコミュニティーを懐かしみ、また再び何らかの形を変えて出てくるような気がするのだが。

No.33 意識とは苦悩を感じるために生まれたのではなかろうか。

母は48歳で突然他界してしまった。そう言えば、昔からもう死んでもいいとか、次に生まれる時は、花に生まれ変わりたいなどとよく聞かされたものだった。父が病がちで、洋裁で暮らしを支えていたこともあり、生きることが苦しかったのだろう。クリスマスイブを前にして、脳出血でそのままに逝ってしまった。

そう言えば、自分も最近仕事がうまくいかず、死にたいなど思ったりする。特に若い頃と違って、歳を重ねると死そのものがそんなに怖くなくなってくるから、始末がよくない。あんまり思っていると、お袋みたいにポックリ逝きそうな気にもなる。しかし、まだやることはある。

どうも無意識で思ってしまうことが現実化することは多々あるようだから注意しないといけない。さて、無意識てはなんだろうか。それに対して意識もある。この2つを同時に考えてみることにした。

よく言われるのは、無意識下では「人称」と「否定形」がないそうだ。私とかあなたとか彼らとかの人称がないということは、そもそも無意識下では「個」が存在しないのではないか。また「否定」がないとは、思ったことが即、現実的世界になる、いわばバーチャルな世界なのか。

勝手に想像するに、無意識は生命体がこの地球に生じた何億年にさか上る生命起源からの進化の記憶がこの無意識を作り上げているのだろう。無意識には受け継がれた生命の記憶があるだけで、伝える言語も遺伝子という記号に近いものだろう。

そこには個とか社会の記憶は一切ない。進化の過程つまり、生命が数億年受け継がれてきた記憶しかない。これこそ個々の「我」が入る隙間のない生命の掟、我=宇宙であり、生物学のルールしかない世界なのだろう。無意識はこの法則で形成されている。

一方、意識下は数億年に比べると長くても数千年の言語的記憶の世界だろう。生まれてすぐに母親の言葉を学び、それを使って社会を作り上げる世界だ。遺伝子的言語が「ゆらぎ」を持たない記号であるのに対し、意識下の言葉はその時代の社会また地域によって意味が変わる「ゆらぎ」を持つ言葉で作られる。

「ゆらぎ」の言語にはあったりなかったり、できたりできなかったり、よかったりよくなかったりの対となる「否定形」が存在する。また個と集団・社会という「人称」が存在する。意識とはいわば数千年に渡る民族社会の言語的記憶によって形成されている。

意識は社会の掟に常に見張られ、無意識は生命宇宙世界の法則に縛られている。前者は社会的ムードや空気に支配された情緒のある我々が使う言語で情報のやり取りをし、後者は記号的な幅のない原始的言語で情報のやり取りをしている。

そしてこの意識下と無意識下との情報のやり取りは何らかのプロトコルを使って行われているのだろう。このプロトコルを最初に発見したのがブッダだった。かれは「天上天下唯我独尊」と言った。プロトコルを渡って自他の区別がない無意識の世界を発見した。

それだけでない。意識の存在理由を見出す。それが「苦」の発見になる。苦を肌身で感じるために「意識」は生まれたのかもしれない。ブッダは「欲界・色界・無色界の三界の迷界にある衆生はすべて苦に悩んでいる」と宣う。しかし「苦」はリスクマネジメントの手っ取り早い手立てにはなる。

赤ん坊が意識世界に生まれ出る時、息をする苦しさのあまり大泣きする。実際肺呼吸開始のためのストレスは一生分のストレスに匹敵するそうだ。人は誰でもこの意識世界、通常、現世と言われる世界に出るために「苦」を最初に知ることになる。少なくとも「愛」なんかではない。

「意識」とはこの世の「苦」を発見する脳内反応に過ぎないのかもしれない。ならば「意識」があるとは、苦しいことだとあきらめるより他ないことを知るべきだ。またこの世は愛に満ち溢れて幸せがいっぱいな世界だというのは幻想にすぎないことを知るべきだ。これはブッダが言っていることだ。

この苦に満ち溢れた世界で生きて何が楽しいのかともブッタは考えた。そこの「覚悟」や「悟り」を見出す。私はこれを「覚醒」と考える。覚せい剤とかそれに準ずるドラッグを使ったことがないので、想像に過ぎないが、「覚醒」とは今まで以上に周りの世界が広く見え、感じる感覚だと思う。

この世が今まで以上に広く見渡せるような透き通った空気の中の感覚は、世界と自分が一体化して内側から起こる幸福感に満たされる瞬間だ。誰でもこんな経験は何度かあるものだ。しかし素直に理解し味わうこともできず、いつも経験は記憶から消滅されてしまっている。

自分のことで言えば、ある夜の雨上がり、満月の空をビルの谷間から仰いだ時、目先の不安が突然遠のき、何か強烈な幸せを感じたことがあった。その時は都会ながら、雨上がりの空気が澄み切って、周り全体が透き通って見えた。神が下りてきたのではないかと思った一瞬だった。

こうゆうことがいつも感じ見られような状態を「悟り」の境地というのかもしれないが、私のような凡夫には難しい。しかし今後学術的に無意識下へつながるプロトコルが明らかにされていけば、凡夫でもより多くの幸福感を得られるようになるかもしれない。

しかし現実は間違ったプロトコルで無意識下と交流し、生命ルールに基づく無意識下の判断は危ない人物とみなして、意識に悪影響をもたらす。その結果、異常気質や精神不安、多重人格などの障害の発生につながるのかもしれない。あるいは、病とか死に誘導する操作が起こるのかもしれない。

あらん限りの想像で考えてみたが、そのうちもっと明らかになってくるだろう。