No.32 少子高齢化を考える

うちの親父は昭和8年(1933年)生まれで、11人兄弟姉妹の末っ子として誕生した。祖母40歳の時に生まれた子だ。「産めよ増やせよ」の国策がなければ父は生まれてこなかったのかもしれない。戦争がなければ今の自分はこの世に存在してなかっただろう。

戦後日本の人口は増えに増えた。ここにきて言われるのは少子化そして高齢化問題だ。東北の震災を境に日本人は減りだしたようで、少子高齢化として将来を危惧する人が巷にあふれんばかりた。枕詞のように何かの話の頭に少子高齢化の言葉が使われる。

少子高齢化はそもそも問題なのだろうか。確かに老人が増えて、働き手が減ってくるというのは社会全体が貧困化への道に進んでいるかのように感じられる。また若い人が少ない社会とは、なんか陰気くさい。誰だってそんな社会はご免こうむりたいものであるに違いない。

しかし、私たちはこの問題の解決策を見出すことができるだろうか。私の答えは「否」である。少子高齢化は社会が解決できる問題ではないと考える。もちろん他国から人を連れてきて人口を増やすのは誰もが考えるが、果たしてこれでうまくいくだろうか。

日本人が世界で初めて民族主義を世界に投げかけ、戦争を起こし欧州中心の世界観を変えてきた。その手前、他民族を一種の奴隷的労働者獲得のような移民受け入れを声高にいうのも抵抗がある。先の時代のためには政治的、経済的というより心情的に、各民族は地球人として統合して行かなければならないからだ。

少子高齢化を社会問題として対策を練るのは必要なことであるが、そもそも少子高齢化は一つの社会現象に過ぎないのではないか。いや社会現象というより、もっと生物学的な意味合いを見つけていく方が、はるかに理解しやすい現象のような気もする。

そもそも少子高齢化が問題視され始めたのはこの20年間ぐらいであり、学歴社会や女性の社会進出、将来への不安などがその原因としてあげられた。しかし出生率の低下はいつから始まったかというと、入手できる資料を見ると、1925年女性一人が5.11人産んでいたが、それから今に至るまで、この低下傾向は変わらないのだ。20年前に始まった話ではないのだ。

いわゆる大正時代のモダンガールが登場してきた頃から出生率の低下に歯止めが利かなくなっていた。産めよ増やせよの時代でさえこの数字を超えることはなかった。人口が増えた原因は医療の進歩と栄養補給の改善であり、経済や政治といった社会制度の進歩にあったのだ。

再度言うが、出生率の低下は今始まったことではなく、100年前からすでに起こっていた。では出生率低下の原因は何かと考える。どうも社会的というよりもっと生物学的意味合いが大きいような気がする。言い換えると生物・生命の本能に近いところが作用しているのではなかろうか。

おそらく何万年、いや何十万年前から人類の出生率はほぼ同じで推移してきた。率が下がったり上がったりするのは生物学的環境に大きく作用されていた。つまり、生命が半永久的に存続するための個体調整がその時代の環境変化の中で行われていたに過ぎない。

環境変化に合わせ個体数増減をうまく調整できない生命は滅んでしまうからだ。コレラ菌のように一時に流行して、何兆倍の個体が増えても宿主である病人が死んだあと生き残れなくなる。しかしコレラ菌がなくならないのは生命としての個体調整をうまくやっているのだ。

今の少子高齢化をこの自然現象として完全に証明するのは無理もあろうが、結構な部分で効いているのではなかろうか。なぜならば我々は生命の法則の支配から決して逃げられない存在だからだ。

ではなぜ、個体数を減らさなければならないか。「食」だろうか。それは大きい要素だろう。しかし親が子を産むという出生での個体調整は、「食」が少なくなるというより、食を作るための「仕事」が減ることが一番の要因ではないかと考える。

コレラ菌は宿主が死ぬと「食」というより「仕事」が減るから個体を調整するのではないか。もちろん私は学者ではないので素人考えを超えていないのだが。言えるのは1925年以降我々の仕事は恐ろしく減少してきた。言い換えると全ての仕事が昔に比べると楽になった。

おそらく飛鳥時代も江戸時代も農村の暮らしはそう大きな違いはなかっただろう。農村での暮らしの中で一人当たりの仕事量は、おそらく何千年も違いはなかっただろう。その仕事量に合わせる形で、食を作り生命をつないでいったのが本来の人間の姿だ。

仕事量に対し食料の生産が若干上がると人口がそれに合わせ増えるが、さらに食料に余裕ができ、栄養価が高まると長寿者が増える。長寿者が多い地域は蓄積された知識量も増え、新たな革新技術や取り分である「食」の分配を増やための政治的手腕も発揮しやすくなっただろう。

しかし、どの時代も20世紀ほどの変化は見られなかった。つまり1925年以降出生率が減っているのは、やらなければならない仕事がなくなってきたからだろう。生命の掟は「働かざる者食うべからず」なのだ。今の時代ほど、働かない。働けない。働きたくない時代はない。下手に頑張ると鬱になる。というか、働く以前に仕事が少なすぎるの問題だ。

一方で爆発的な生産性の向上によって、食は余剰確保され、不必要な栄養までとらされ、死にたくても死ねないご時世となる。加えて大きな戦争を経験したがために、ヒトの命ほど大切なものはないという価値観を作り上げ、なおさら死が恐怖そのものでしかなくなる。

結果、少子高齢化の時代に突入する。今まで、生命が経験した環境下では、仕事がなくなるとは食がなくなる状況がほとんどだったが、20世紀のイノベーションは生産性を飛躍的に上げ、わずかな労力で食と栄養が確保されるという、これまで生命が経験したことのない環境を人間は作り上げてしまった。

これは今だけの一時的なものなら結構だが、何十万年も経験したことのない時代はまだしばらく続きそうだ。一方で20世紀の機械化・産業化から21世紀のIT化、AI化はさらに我々の仕事を奪っていくに違いない。食べて生きていけるが、仕事がないとは実に妙な時代に入り込んでしまった。

生命は仕事というリスクをとり、やっと食にありついていたのが、ノーリスクの中、栄養チューブでつながれているような状況下で、死も任意的に選択できず、ただ生きていかなければならない世界がそこまで来ているのかもしれない。

リスクを取れない社会とはなんなのか。武士が、あるいは高度成長期の戦士が命を懸けて戦う時代はゲームの世界でしか味わえなくなってしまった。リスク自体が幻想になってしまった。個体の命というリスクを懸ける殺し合いをしていたのは、生物として何か大きな意味があったのかもしれない。

今後、食よりも仕事がどんどんなくなっていくのは必至だろう。いずれは10人に1人ぐらいの女性しか子供を持たなくなる時代が来るかもしれない。しかし人類は大きなリスクをとる最後の判断だけはAIはできないか、させないだろう。したがって戦争は消滅しないだろう。

今後我々はわずかに残っている仕事をうまくシェアし合い、人間としての尊厳を確保していく一方で、誰も考えない新しい仕事、そのもの自体を作り出す必要がもっと出てくる。それはプロがやっているスポーツのようなものやアートのようなものか。具体的にはわからない。

でも新しい「仕事」とは人間の身体感覚や感性を磨きあげたりするスポーツや芸術的な仕事なのかもしれない。今ある99%の仕事はすべてをロボットやAIがやるのだ。仕事がなくなれば人類は消えてなくなるだけだろう。それが生命の掟なのだ。