No.31 奴隷制を考える

日本は先進国の中国から学ぶ中で、決してマネしなかった制度の中の一つに奴隷制があった。なぜ、奴隷制を日本は受け入れなかったのかはここでは議論しないが、奴隷制が世界的に拡大する中で、日本は奴隷反対を維持してきたことを議論したい。

中国・朝鮮だけでなく、他のアジアや中東・北アフリカ・ヨーロッパなど世界中が奴隷制を受け入れてきた歴史の中で、日本が例外だったのは大きな驚きであり、そこに日本の特殊性がうかがえる。

しかし、日本は2度この奴隷制の洗礼を受けなければならなかった。奴隷制がグローバルの常識であったなか、グローバルリズムの波が日本に届いたためだった。世界が採用する制度とのぶつかり合いは避けられなかった。はじめは東回りできた白人ポルトガルとの接触だった。

ポルトガル人というと1534年の鉄砲伝来と16世紀後半のキリスト教布教しか頭に浮かばないが、なぜ家康が鎖国したのか。またそれ以前なぜ秀吉は奴隷の売買を禁止したのか。リンカーンに先駆けること300年前に。実は当時日本人の海外渡航者は商人よりも奴隷でポルトガルに売られた人間のほうが多かったのだ。

家康が南蛮貿易を禁止した最大の理由は宗教ではなく奴隷売買だったのではないか。奴隷を忌み嫌った理由は、日本人民は領主のものという意識はなく天皇から預かっているにすぎないからだ。そして天皇家は奴隷制を秀吉や家康よりさらに1000年以上前から否定してきた。

それは家康も秀吉も犯すことが許されない国是であった。これに唾をはきかけた信長は、優秀であったが抹殺された。奴隷制の向こう側に何があるのだろうか。それが「ビジネス」だと思う。ビジネス=グローバリズムとも言える。ビジネスは奴隷制を容認して始まる。

ビジネスの思考概念は奴隷制なくして生まれなかったからだ。ビジネスはどのようにして生まれたかを、その発祥の地ヨーロッパの歴史で考えると分かりやすいかもしれない。稲作が普及していたアジアはヨーロッパの麦に比べ炭水化物が豊富であったし、ヨーロッパの海流は大陸間を通ってくるが、アジアの海流は大陸に沿って流れるため、海産物のタンパク資源はヨーロッパに比べはるかに豊かだった。

特に海産物は日々採れるので、肉に比べ保存を考えなくていい。一方ヨーロッパではどうか。タンパク質は牧羊などに頼らざる得ない。牧草は冬なくなるので、そこで羊を殺し食用に保存する。しかし肉は腐るのが早く、疫病のもとにもなりやすい。そこでどうしても必要だったのが、胡椒などの香辛料だった。

もちろんローマ時代香辛料はシルクと同じ高価なものだった。ここからビジネスが始まる。彼らにとって、自分らの土地で作ることができないものを安価に手に入れるための思想・技術がまさに「ビジネス」と名のもとに登場した。今のビジネスの原型はすべてがここに始まっている。

ヨーロッパでは不衛生な食環境で疫病がはやり、中世の人口は3分の1になったといわれる。ヨーロッパ人が生である刺身を食べられないのは、過酷な食のリスクに対する遺伝的記憶なのかもしれない。

しかし疫病の蔓延は耐性力のある人間を残こした。聖書が記すような選民された人々が残ったことからヨーロッパ時代は進化する。密集した狭い不衛生な環境の中での何十日間の航海に耐えられる民族となったのだ。そして自分らが持っていないものを探しに船出し始めた。それが大航海時代だ。

航海のリスクを分散するために株式が発明された。航海後の宝の山分けを話し合うために、港で樽を並べ、そこに板(ボード)を載せてお互い腰掛けて何時間も話し合った。彼らをボードメンバーというようになる。自国にないものを非合法的暴力を用いず持ち帰ることが「ビジネス」であり、ヒトモノカネの蒐集・運営こそが経営であり、資本主義のもとを作る。

また、ヨーロッパにないものを蒐集するから必然的にグローバリズムを目指すこととなる。労働力も不足すれば連れてくればいいだけだ。ここで再び奴隷制に話を戻す。非合法的に人を連れてくることを前近代奴隷制とすれば、合法的暴力を使って人を連れてくることは近代的奴隷制であろう。

1862年にリンカーンが前近代的奴隷制の廃止を宣言する一方で、マルクスは1867年に発表した資本論で近代的奴隷制を書き上げた。ビジネスを合法的制度に祀り上げた資本主義に対して「搾取」というシステムを発見したのだ。「搾取」とは労働価値に対する正当な対価を払わないということだ。マルクスの最大の功績がこの理論的発見だと私は思うが、残念ながらこれは社会主義者や共産主義者に政治的に利用されただけだった。

今、アフリカからヨーロッパに仕事を求めて密入国者が絶えない。これは近代的奴隷制といえないだろうか。確かに強制的に連れてこられたわけでないが、密輸のためには不当な渡航費や、たとえ船が転覆しても助けてもらえないという高コスト・リスクの中で来ているのは、暴力的に連れて来られるのと大差があるだろうか。

企業からすると人件費の高い自国民を使うより、安い人間を使うほうがありがたい。これは合法的だが、ある意味搾取だ。人手不足で倒産しそうな企業にとっては、いたしかたなのかもしれないが、賃金を上げられず、人手不足で倒産しそうならば、倒産したほうが社会にとってはいいのではないかとマルクスは考えるだろう。

奴隷制とは何にか。簡単にいえば、金や暴力(連れて来られる人にとっては高リスク・高コスト)の中で、人を労働力として連れてきて、食べるだけの給料しか与えない。そのため新しいことを始めることも、他に移ることなどもできず、自由意志をはるかに超えた大きな制約が続く状態と考える。

奴隷制を否定してきた日本でも、確かに似たような問題に部落差別なるものが存在したが、彼らは決して奴隷ではなかった。村八分に過ぎなかっただけだ。しかし、グローバル化が加速する日本では新しく生じた近代的奴隷制が拡大する一方のようだ。

軍隊が兵隊を死なせたのは、国を守るという天皇の意思があったからだが、ブラック企業が重労働や低賃金で従業員を殺すのは天皇の意に反するだろう。日本人は今でも天皇の子であると思うのであれば、奴隷制を認めてはいけない。

西回りできたもう一つの白人アメリカは日本の鎖国を壊し、その80年後GHQによって国体まで潰した。そのアメリカは、リンカーンが禁止した奴隷制ではなく、「グローバル・ビジネス」、つまりヒトモノカネが国境を超えて動き、またモノだけでなくヒトもまたカネで評価される「ビジネス」というシステムで新たな奴隷制を日本に持ち込んだ。もちろん江戸の日本は拒むことはできなかったし、明治日本は他に道はなかった。敗戦日本は言われるまま。

この新奴隷制から日本を守るために、今の時点で考えられることの第一は移民・難民を安易に入れないことだと私は考えている。移民を入れる正当性に経済的理由があるのだろう。難民を入れるのは人道的意味があるのだろう。しかし、結果として奴隷制を容認することに近くなることを認識すべきだ。たとえ困った人間でも自国に入れるのは、今の日本では搾取の温床になるからであり、この「搾取」が奴隷制を生む。

日本では少子高齢化の状況下であるものの、他国労働者に全面的に頼り切るのは極力避けるべきだ。近未来の次時代グローバル・ビジネスの形も変わっていくだろうから、新時代が来るまでもう少し辛坊したほうがよさそうだ。

私が考える新たな時代とは、ヒトモノカネがビジネスを構成した世界が終わり、ヒトに変わりAIモノカネ、そしてやがてカネもなくなる世界だ。未来はAI・モノが経済活動の中心になり、この上部でヒト同士の社会活動が営まれる。などと勝手に想像している次第だ。

次の時代、もっと変化があるとすれば、カネの存在自体が全くなくなるのではないか。人類にとってカネの寿命はそんなに長くないような気がする。少なくとも今、機能的役割としての「カネ」というバブルは弾けかけ、違う形を模索している。最終的には何かにとって変わるのではなく、カネの機能自体が不要になる時代が近くまで来ているような気がしてならない。異論は多々あると思うが、今は「奴隷制」に大いに反対することが次時代の到来を早める近道のような気がしている。

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