No.30 正義か村八分か。

アフリカでは未婚の妊婦を処罰するために、小さな島に置き去りにして死なすという村の罰則が残っている。これは過酷だと感じざる得ないが、そこの村人は当然だと思っているだろう。盗みを働いた者の腕を切る国もある。

しかしこれが中世のキリスト教の村だったら、この未婚の妊婦は火あぶりだったかもしれない。小さな島に置き去りにするのは死を意味するが、決して村人が直接手をくだしたわけではないからだ。後談としてある男に助けられ、その女性は子供も授かり長生きしたというストーリーと続くのだ。

土地土地や国の文化とはそうゆうものなのだろう。他国の文化を決して軽々しく見ないほうがいい。その土地の者たちにとって、文化は最もいごごちのいい習慣や風物、制度だったりするからだ。そこに住んでいる者にしか理解できない。これを壊す者には村八分が待っている。

我々は、よく右翼左翼、あるいは保守リベラルなどと言っているが、大ざっぱにとらえると、ライトは国、地域、土地がまずあって、そこに根付いた文化が守られて初めて、他国と友好関係が保たれるという考えだ。国があってこその国際なのだ。まさに多神教なのだ。

一方レフトは、まずは個々人が存在するところから始まる。土地ではなく個人がいて、そこから個々人は村や国境を超えて機能的につながっているのだ。その前提として、全体的な価値観、いわゆる正義・教義が必要で、これは一国を超えて普遍的なものとなる。まさに一神教だ。

ライトは土地文化を優先し、レフトは正義教義を優先する。人類社会はいわばこの二重構造の中で存在してきたのだ。さてどちらが人間社会にとっていいものなのだろうか。土地を国を重視すればそこの独特な掟を尊重しなければならない。

正義を重視すれば反正義は死を意味する。戦争もありだ。しかし土地を重視すればいまだに残る女性差別や非人道的処遇も他国ということで容認しなければならない。北朝鮮やイスラム国でどんな残酷なことがあっても、それは国が決めたことだから他国者には関係ない。

正義を信じるものにとってはこれは非常に我慢ならないことかもしれない。同じ人間なのにと。しかし、どんなに残酷な処遇であろうがその国の文化習慣を重んじれば、文句は言えまい。正義は文化を駆逐できるのか。正義か文化か非常にきわどい選択なのである。近代は正義の時代だ。

しかし民族でどちらを重視するかがある程度決まるのかもしれない。アーリア人の移動は人の土地を勝手に略奪しつつ世界に広がった。彼らにとって土地の文化より、正義が上なのだ。初めての一神教であるゾロアスター教を作ったのはアーリア人で、そこから略奪的な民族移動は始まった。ゾロアスター教からユダヤ教、キリスト教、イスラム教、仏教が起こった。

土地を追われてアジアやアメリカ大陸に渡った民族もいただろう。われわれアジア人は地の果てに安住の地を見つけた。そして仏教が伝わっても土地神を祭る多神教民族だった。太平洋を超え東へ向かったインディアンやインカ民族には移動に時間がかかりすぎてやがて西回りしてきたアーリア人と渡り合うまでの技術を育てる時間が足りなかったために簡単に征服された。

アフリカからアルビノと忌避されて追われたアーリア人の先祖は、近代にいたるまで近くの故郷アフリカを征服できなかったのはアルビノ体質に合わない疫病があったからだろう。しかし近代に近づくにつれ土地文化を重視するアフリカの民族も一神教の民に徐々に征服されていく。

東西からやって来たアーリア人たちの征服から身を守り切ったのは日本だけだろう。幸いなことにアーリア人と渡り合うに成長するための時間的余裕を日本が持てたのはどっち回りだろうが欧州から一番遠い極東だったからだろう。最後はアーリア人に負けてしまうが、日本が彼らと一度徹底的に戦った意味は意外と大きい。

さて、日本人からするとライトの方が自然であるようだ。秀吉にしても他国を侵略する正義は持ち合わせていなかった。日本は土地に根付いた村社会なのだ。そしてこのライト的考えも大切なことを前の戦争で世界に伝えた。正義だけが世界を支配するなど許さなかった。

村社会は土地の文化を重視する社会だ。戦争に負けて一神教に日本文化はある意味で汚染されたもののまだ健在である。一神教徒からすると、村八分とか部落差別はまことにいかがわしいものだろうが、今の我々にも理解できない昔のシステムがあり、当時の社会をうまく機能させていたのではないかと思うのだが。

少なくとも正義は簡単に人を殺すが、村八分は生存を許してきた。

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