No.27 父が子に送る泣ける15か条

1)困難から逃げない。困ったことが起こったら、幸せの前兆だと思って喜べ。

2)自分に嘘はつかない。好き嫌いはあるものだ。どうしてもいやなものは、申し訳けなくてもNOとはっきり言え。

3)自分の願いを最優先しろ。やりたいことは、いつでも見つかるものでもないし、そんなにいつまでも続くものでもない。やりたかったらやれ。やって後悔するのが人生の勲章。

4)ものまねするな。ぼろを着てても自分は自分。恥ずかしいと思ったほうが負け。

5)羨ましがるな、無理してでも、しっかり他人の成功を喜んでやれ。人は人。自分は自分だから。他人の成功は独立変数。他人の成功と自分の成功は何の関係もない。

6)過去はしょせん、どんな過去であろうが、過去に過ぎないと思え。その過去がどんなに大失敗でも大名誉でも同じ。

7)失敗を恐れない。その結果を人生のゴールにしない。先は長い。

8)幸せを金でかうな。やりたくないがこちらの方が儲かるなんで仕事はするな。幸せは実は無料(ただ)だということを知るべし。

9)他人に依存しない。特に精神的に頼るな。依存するから腹が立つ。ちょっと違うなと思ったら、裏切られるのがおちだと思え。恋愛もしかり。しょせん、こっちが好きか嫌いかの問題だ。

10)立ち止まらない。考えたって、仕方がない。少しでも無理してでも、前に進んでみる。

11)絶対無理と言わない。だめだってのは、最後の10000分の1秒まで死んでも思うな。言うな。

12)無理してまで付き合わない。しがらみはしょせんしがらみ。さっさと離れろ。

13)別れと出会いは表裏一体だと知れ。別れがなければ出会いはない。この世は何かを得るために何かを捨てるしかない。

14)他人と決して競い合わない。人生はあいつに勝った、負けたではない。

15)道で犬のくそ踏んだら、ラッキーって声にだして言ってみろ。

No.26 グローバリズムは5万年前に始まった。

人類の先祖は350万年ほど前から二足歩行を始めた。それから大きく人類は進化していく。まず、二足歩行によって頭蓋骨に変化が現れる。その変化とは一つは脳容積が増加したことであり、もう一つは声道を形成したことである。

脳の増大が人類に与えた影響は大きかった。現在でも一人の一日あたりの消費カロリーが2000kcalぐらいとすると、そのうち脳は400kcalを消費する最も浪費家の臓器なのだ。太古はそうカロリーを取れなかっただろうから、消費カロリー全体の20%以上脳が取っていたのではないか。

人類はこの浪費家を養うために260万年前から石器という道具を使うようになった。浪費家の脳にもっと効率的に食わせるためには、どうしても道具は必要だった。それは脳がもっと何か食わせろとうるさかったからかもしれない。

やがて170万年から20万年前になると火を使うようになる。火はまず植物の毒消しになったので、食べられる草の種類が極端に増えた。それと同時に加熱されたタンパク質の栄養吸収性が上がったりで、同量でも栄養がよくなった。それだけではない。光や暖もとれ、虫よけにもなるのだ。

火の使用が人類全体に定着し、一般的になるのはかなり時間がかかっている。火を管理するということは恐ろしく大変なことだったからだ。自然で火を見つけるのは滅多にないし、火を起こすのも大変な仕事だった。そこから、人類は集団化することで、火を常時使えるようにした。

そのとき声(もう言語化されていただろう)は集団を作るコミュニケーションの最大の道具になり、より洗練された石器を使うようになった5万年前から集団化が本格的に始まった。そしてグローバル化の時代になる。人類は故郷のアフリカを出て、ヨーロッパにそして、アジアに向かったのだ。

さて、火と道具と集団を手に入れた人類はこの5万年をかけてさらに進化していったのだろうか。実は人類は火の使用が定着した20万年あたりから、一切は進化していないらしい。ということは、20万年前の人を連れてきて今の教育を受ければ、現代人と全く変われないというわけだ。

20万年かけて人類は確かに豊かになったが、一切進化しなかったというのも寂しい。体内環境でいえば、免疫力も視力も筋力も進化どころではない。退化しているといったほうがよさそうだ。さらに感性あたりも20万年前に比べ貧弱になっているのかもしれない。

生物は自分自身の体内進化によって、360億年の地球の環境変化に順応してきた。が、人類の進化はもうストップしたのだろうか。20万年前から現在に至る進化は、体内進化ではなく、体外(環境)進化を続けてきたというのが正解のような気がする。

ものを作ったり、服を作ったり、家を作ったり、薬を作ったりして環境進化を続けた。いわば環境進化が人間という動物の進化なのだ。つまり我々が作ったもの、服、家、そして制度や文化も含め、これらのものは我々生命体の一部であり、進化なのだ。

バイオロジーの進化がテクノロジーの進化に変わっただけである。いろんな状況の中このテクノロジーの進化を見ていくと、「人生において最も耐えがたいことは、悪天候が続くことではなく、晴天が続くこと」だということを物語っているようだ。

脳はそのために生まれた人間の臓器であったようだ。脳は幸せより刺激を好む臓器なのだろう。どんなに豊かになろうと悪天候がなければ脳は活躍できない。幸せになることによって脳の役割は終わるのかもしれない。不幸なればこそ脳は今後もテクノロジーを進化させるのだ。

人類はマシーンによって重労働から解放され、肉体的には楽になった。人類が幸せになると脳の存在価値は薄れてしまう。それでは困る。ならばということで、脳は人類を不安にさせるように幻想を見せ始めるのだ。これが20世紀という時代だったのかもしれない。

幸せは脳が望んでいることではない。脳にとっての快楽のもとは不便・不幸なのだ。しかしよく言えば、脳は生命が誕生してからの遺伝子的記憶を分析し、将来的な地球規模の危機を予測し、そのスピードに合わせてテクノロジーを急速に進化させているだけかもしれない。

いづれにしろ、脳は我々を幸せにする目的で進化したのではないような気がする。間違いだったらいいのだが。

No.25 社会は幻想を通してしか見ることはできない

社会集団の支配者や為政者が定めない限り、人間に上下関係は生まれないのではないだろうか。国の指導者が奴隷を作らなければ、奴隷には何人もなりえないのではないのだろうかという考えに至った。また貧困層の定義を明確にしなければ貧困層は存在しないとも言える。

一つの生命体としての社会は、基本的に誰かによって作られたものではなく、自然発生的に出来上がってきたものだろう。区別や差別は後になって、為政者が統治しやすいように考えた仕組みにすぎない。

平均が4人家族という社会は一般的だろう。ならば社会を考えるときに一つのモデルとしてそれを当てはめるのも当然かもしれない。しかし世の中には子供のいない夫婦もいれば、一生独身者もいる。また大家族もある。

為政者が社会を把握する場合、一番多い中心値をモデルに、またこれをメインに考えるのは致しかたないことだ。もちろん、それはあくまでも平均値に固まった集団の姿に過ぎず、実際には、それから離れた人たちも存在する。

これをメジャーとマイナーで分類するならば、為政者はマイナーまで心配する労力から逃れたいものだ。民主主義の原則である過半数の支持を得られればそれで十分政治は機能する。つまり為政者は正規分布の端にある1シグマ、2シグマは基本的に見る必要はないのだ。

たまたま自分がこのシグマに入っていると分かると、非常に理不尽な思いをするものだが、生命体としての社会を見るとなんの不快感もないのだ。今はこの部類に入る大金持ちもいるぐらいだから、よくも悪くも、ここに入るのはたまたまだと考えるほうが手っ取り早い。

自然なら偶然、神という人もいるかもしれないので、神ならば必然かもしれないが、自分の意思をはるかに超えたふるい分けの中にあるということは事実であり、自分が悪いわけでもないし、社会が悪いわけでもない。あくまでもたまたまなのだ。

人間たちはそれらの現象を何かの物差しで測量して、分類をはじめ、その原因を追及しようと躍起になるものだ。そして正規分布の端っこに生存するマイノリティーを社会的感情のもとで差別したり、時には救済策を講じたりとやっているわけだ。

近代以前はもっと平均値に分布は集中していたが、今は多様化が進み両辺に広がっただけで、構造は昔から変わらない。恐ろしいことに国家主義や共産主義が正義だった時代は周辺の人間を粛清し中心値に集団を集めた。今はそれができないから両脇に広がる。同性愛者も目立ってくる。

また、端っこに行った人は、前世で悪い行いをしたとかの偏見に満ちあうれており、努力が足りないからメジャーなグループに入れないとかの精神論がまかり通っている。またそれが差別やいじめにもつながっていくのだ。

しかし、この正規分布こそが社会像というものであり、昔から一切変わっていない。それを学者がその時代の政治に合わせ分類分析して、その時代に最も都合のいい社会像にしていくだけの話かもしれない。政治や経済に役立つ幻想を作っているだけかも知れない。

なぜならば我々は神ではないからだ。したがってその幻想を通してしか社会を把握することができないのだ。一つだけ正しいのはこの正規分布はいつの時代も自然の法則に沿ったものであるということだ。自分は分布のどこにいるかが気になるが。

No.24 犯罪の本質と搾取

マルクスは生産手段を持たない労働者の生産物に対して資本家が支払う対価が低いとして、それを搾取と呼んだ。今でも資本主義社会に限らず、世の中いろんなところで搾取はまかり通ているような気がする。

そもそも搾取は資本家が出てくる以前からあった。単に資本主義経済を非難する材料として非常に都合がよかったので共産主義者は大いに利用した。しかし、資本家の出現が搾取を生んだのではなく、昔から持てるものと持たざる者の関係の中で起こった。

ところで世の中にはいろんな犯罪がある。例えば、①カッとなって人を刺す。②盗みを働く。③わいろをとる。④嘘をつく。などなどであるが、①は人間的感情がなすものであり、いろんな人間同士のトラブルは永遠に尽きることはないので、これは自然発生的な犯罪だろう。

一方、②から④などは、一時の感情からというよりは計画性そして場合によっては、勝手な正当性の下で行うような犯罪だろう。そもそも盗みとは社会の再分配機能が停滞し、持たざる者の不平等感に起因するから、何らかの正当性はあるかもしれない。

これらは社会問題に起因するのだろう。キリストが、持てる者はさらに持ち、持たざる者はさらに奪われると言っているように、持たざる者からの搾取に犯罪の本質があるのかもしれない。そもそも政治だって正当化した搾取システムに過ぎないのではないか。

それを言えば共産主義国家などはうまく搾取するシステムを導入した国家だ。北朝鮮あたりはいわば、最先端の政治システムを導入しているのかもしれない。なぜなら歴史的に見て、政治の本質が搾取にあるからだ。支配者にとっては民主主義は共産主義に劣る政治システムだろう。

①以外の犯罪はこの搾取にかかわっているような気がする。窃盗は搾取のはての不平等感が起因になっているのこもしれない。わいろは基本的に持てるものの利権であり、努力して持てる側に入ったものは、不用意にも自分の実力以上の利権を使おうと、犯罪者に陥る。利権は何世代かかけてうまくロンダリングして見えないようにしていかないと失敗する。

嘘をつくは今はやりである。特に組織的利権を守らなければいけないときは組織ぐるみとなり、意識もせず平気で嘘をつく。フォルクスワーゲン、三菱自動車、東芝だけでなく、お隣の中国などは、よく見せようとして過大報告ばかりだ。

隙あるところから搾取するために、利権を守るための嘘はよくあることだ。だいたい戦前の日本国の精神主義などは、国民から搾取するためにあったようなものだろう。精神主義をかざされた個人は当たり前のように国家のために働いた。搾取された感も全くない。

今の会社だって、業績のため、お前のため、家族のためなどの精神主義を持ち出され、長時間のサービス残業や過当競争、行き過ぎた忠誠心などにどっぷりつかってしまう。しかし持てる者の持たざる者に対する搾取が過ぎると、犯罪を生むことになる。

No.23「運」を考える

私は運がいいという人間ではない。しかし仕事をやり遂げるために今、最も必要なもののような気がする。そのためには、運とは何だろうと考えてみることにした。運はただの確率論ではなく、なにか法則みたいなものがあるのではないかと思ったからだ。

運を導くためには、確かにまずは静かに待たなければならないだろう。基本は確率だからだ。しかし運を導くためのプロセスがあることも事実のような気がする。それは偉人たちの伝記やヒーロー物語を読むと明らかだ。

運に必要なのは楽観主義とも思われがちだがそうでもない。確かに楽観主義者たちは、幸せを手にするのは早いだろうが、運が味方するからでもなさそうだ。かといって悲観主義者は幸せを感じる間もなく人生に怯えながら生活しなければいけない。

その中間が運の法則に当てはまるのではないだろうか。一言で言えば目先悲観論者でも、将来に対しては楽観主義が一番運を手にするのではないかと思う。つまり短期的には、しばらく辛いことは続きそうだな。もっとなんか嫌なことも起こりそうだと悲観する。

しかし現実の厳しさをはっきり認識できることは大事であり悲観論者のほうが適格かもしれない。いづれにせよ重要なことは、そのうち状況は回復するし、好転する時が来ると信じることである。これが長期的には楽観論的であるということだ。夜明け前は暗いが朝は必ず来るという自然の法則と似ている。

またこのように生きることが最も運に近づく方法かもしれない。ポジティブ思考をどんなに追及していっても、人間の感情は戻りがあるので、その時の反動はすさまじいものとなるかもしれないし、むしろ危険だ。ポジティブ思考は感情の揺らぎに翻弄されやすい。

ポジティブ思考だけでは頑張り切れまい。しかしポジティブ行動ができることは非常に意味がある。毎日が不安でしかたなくても、いつかよくなると思うことができれば、ネガティブ思考でも少なくとも行動だけはポジティブになれるだろう。それを習慣にすればいい。

それが粘り強さになる。たとえ楽観的であっても、過酷な現実が続くと、楽観主義者が一転して厭世的な気分に落ち込んでしまう。たとえ大成功しても場合によっては燃えついてしまうことだってあろう。何度失敗しても仕方あるまい、運がないのだと今は悲観的であってもいいのかもしれない。

問題は、辛坊強く続けられるかだ。つまり、今は運が悪いと悲観的だが、いづれ好転すると思えることが大切だ。また努力量が結果につながるのは運がいい時だけである。努力量が結果に結びつくという考えは実は非常に危険なのだ。

だって、これだけ頑張って東大に入っていい会社に入社できたのだから、努力しなかった者より自分はいい生活ができて当たり前という考えになる。しかし、現実はどんなに努力しても金メダルを取れるとは限らないのだ。努力を信じすぎると成長をストップさせる。

努力量ではなく、粘り強くやればいつか好転すると楽観的に考えることが大切なのだ。悲観的な中で努力するのは危険だ。たとえ努力によって成功しても達成感や幸福が訪れない。だからまた果てしなく努力する。それが社会のためであれば結構な話だが、たいていは自分のため、金のためのほうが多い。

運は幸せと関係があるのだろう。人間は明日誰でも平等に太陽を拝むことができるということを知っており、夜明け前の暗さに耐えられなくなるのは馬鹿げたことだと思う。神様は運は皆平等に来るのに、その前に自ら逃がしてしまうのはおかしなことだと思っているのかも知れない。

No.22 天と地

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭にある言葉である。 生来、人間はすべて平等だと言っている。人の下にあるのは、我々の国土である大地だ。なのになぜ差ができるのかを考えると「学問のすすめ」になるのだろう。「天」の下では平等だが「地」上では不平等らしい。

「地」とは我々の生活の基となる土地・地域・国土である。拡大的に解釈すると生産体としての土地や農地であり、漁場も含まれる。そして、工場や学校、役場、盛り場や街も含まれるだろう。「地」とはいわば我々の社会そのものを指す。

身近であれば、家族や友人、知合いから、人や物を運ぶための車や道路、情報を伝えるための通信や放送、さらに言えば生産技術や流通システム、そして政治・文化・歴史・言語など自分の生活に欠かせないあらゆるものが「地」に含まれる。

「地」は「社会」そのものと言ってもよい。一方、「天」とは諭吉に言わせると神様かもしれないが、もっと科学的にいうならば、それは「生命体」、あるいは「生命というシステム」だと私は思う。生命体は宇宙を起源としているからだ。

宇宙誕生後百数十億年経ったところで、ある環境条件下で、地球の岩石と気体から生命体は発生した。そしてさらに何十億年と環境が変遷する過程で進化し続け、やがて人間を作る。人間は強大な脳組織を進化の過程で手にいれたことによって、個人としての感覚を認識し、「地」を手にするに至る。

つまり個人の生命を作り上げたのは「天」である。「天」とはあらゆる生命の種とその歴史的な集合体である生命体を指す言葉だ。この生命体は個々の命を受け継ぎ半永久的に続く。それを人類は神と言った。

しかし神という言葉をあえて使わず語るならば、個々の「いのち」の上に生命体という生命システムが存在するのだ。これを「天」という。人間は「いのち」を授かり「天」の下に生かされ、また「個人」としては社会というシステムの「地」の上で生活する。

そして自分の命がなくなったとしても「天」と「地」は残っていくのだ。つまり人間は「天」と「地」に生かされている存在に過ぎない。個人の尊厳などとどんなに声高に主張したところで、「天」と「地」を無視することは決してできないのだ。個人主義は誰かが都合よく作った幻想に過ぎないのかも知れない。

重要なのは、天と地の間でいかに生きるかだ。「いのち」とは天が与えた「生きれ」「死ね」という命(令)であり、「個」とは社会の中で何を担うか、自分にどんな役割があるのか、何が人のためにできるのかを考える「地」が与えた「役」なのだ。地面にしっかり立って天を仰ぎ見、拝む人間になりたいものである。