No.13 民主主義について考えてみた

テーマが大きいのでうまくまとめられるか分からないが、あえて挑んでみる。民主主義の原則は2つあると思う。一つは大数の原則である、もう一つは少数の原則である。まずは大数の原則は分かり易い。多数決である。これが民主主義の第一義だ。これなくして民主主義はない。

原始社会を考える。グループで暮らすとどうしても、口が達者で、声が大きく説得力があり、筋力も強そうで強面の顔をした人の言うことには逆らいづらいものだ。田舎のおばちゃんなども口が達者な人が多く、なぜか逆らえない。特に私のような気が弱く、何事も自信がない人間は特にそうだ。

彼らは気の弱そうな連中を捕まえては、もっとこうしろ、ああしろと責め立てるようになる。これが世代を通して続くと階級のような状況を作り出していき、使う者と使われる者に分かれていく。使う者の理屈は自分のほうが勉強もでき賢いから指導者になったので、皆は言うことを聞いとけばいいといいものだ。

これは分担する労働の労苦の度合いを徐々に広げていく。そして一部の指導層とその下々という具体的な階級になる。しかし、力もない下々のほうが人数は多いのに気づくものが現れた。そして皆同一の不満がある。下々全員で指導者に意見することが可能となる。

ここでは数の理論が優先される。無力な下々の者たちだが、数が力になることを初めて知るのだ。これこそが原始的な民主主義だといえるだろう。民主主義とは同一意見を持つ人の数が多い方が正義であるという考えだ。これに対抗するのはそれを超える暴力が必要であるが、武器技術が限られている世界では頭数で勝負はついた。

正義は「頭数VS暴力」で決まる。時代においてどちらが優勢かで民主主義の度合いは異なる。「頭数」は生産性と結びつき、「暴力」は技術開発力に結び付く。勘違いしてはならないのは、民主主義はどの地域社会にももともと原始的な実力行使として存在したのであって、明治になって西洋から伝わったのではない。伝わったのは民主主義の制度に過ぎない。

ただ、暴力(武力)がはびこる世界では民主主義は存在はするが、表立って政治の原理原則とはなりにくいだけである。それぞれが所有する「暴力」力の格差が大きいと民主主義は台頭しにくいのは事実だろう。富の格差が民主主義を弱めるのではなく、富は格差の結果に過ぎない。

江戸時代でも原始的民主主義はあった。それを象徴するのは、村の鎮守とおみくじだ。村のルールや問題解決を領主が勝手に決めたわけではないのだ。そこには村の話合いがあり、意見が出そろったところで鎮守の御籤で吉凶を占った。鎮守神は反対派を最終的に取り込み意見を一致させる装置にもなった。

また「和の精神」が昔から日本では尊ばれてきた。これが民衆主義の第二の原則なのだ。日本人は昔から少数派の意見を大切にした。国造りがまさにそうだ。大人数の国が少人数の国を飲み込むが、日本統一の基本原則は「国譲り」だ。少数派を決して力で押さえつけず、和の精神で仲間にしたのだった。

つまり少数派の声を聞き話合い、和をもって同化していく。まさに民主主義の鑑である。今の世界は民主主義を政治基本の原則とする国が多い。しかし一方でいまだ暴力を基盤にしている国もある。共産主義やテロ国家は後者に部類するだろう。

共産党の基本概念は暴力闘争だからだ。共産主義は暴力なくして階級闘争は具現化できなかった。もし、西洋の民主主義が「和の精神」をもっと取り込めていたならば革命は起こりえなかったかもしれないし、今のテロ国家もこれほどひどくはなかっただろう。

少数派闘争とは非常に過酷な闘争なのである。したがって多数派が少数派の声を組み取る意思がなければ、少数派は最終的には暴力を使う以外はないのだ。今の世の中は多数派が常に正義であり、少数派はそれに従う以外生きる道はないという民主主義だ。

これはテロ国家やテロリズムと民主国家の対立、共産主義国家と自由国家の対立に見られるだけでなく、沖縄基地反対闘争と日本国家の対立などにも見受けられる。基地問題で言えば、沖縄県民の米軍に対する怨念は理解できても、米軍なしに日本は中国と戦えるかという議論に誰も入って行かない。

これは沖縄の問題ではなく日本国全体の問題なのである。しかし日米同盟という絶対的正義が存在する以上、云々言わず日本国民ならば黙って少数派も受け入れよという考えがいまだ根強いように感じられる。どうも沖縄には日本の和の精神は届かないのだろうか。

No.12 GO THERE

人間の脳はほんの数パーセントしか活用されていないそうだ。従ってこれをフルに活用できれば、すごい能力を発揮できるらしい。まさに全人類の英知は脳全体に詰め込まれているのであろう。

では、なぜヒトは自分の脳をほんの一部しか使ってないのだろうか。あるいは、今利用されている脳の領域だけでその人は満足しているからなのだろうか。何かそこには神の意図があるようにも思えるのだが。どうだろうか。

もし、脳のすべての領域を使うことで、人間の脳が人類の英知すべてを活用できるのであれば、なぜ私たちはそれをフルに活用しないのか。その答えの一つに、私たちは社会を持っているからではないかと考える。

使っていない脳領域にこそ他人と共有し理解し合うために必要となる部分があるのではなかろうか。つまり、その領域を使って、他人とつながる。その領域があるからこそ共感し他人を理解することが可能になり、社会を形成するという仮説だ。

なぜ、そのようなことを人類は選んだかというと、全能の個人がいたとしてもその個人の命が途絶えてしまえば、それですべてがおしまいになるからだ。命は限りがある。永遠に生きるためには生命としての機能を携えとかなければならない。

そのため個人はそれぞれが生命としての一部の役割を分担し全体を組織化したほうが生命としての危機管理は高くなる。たとえ個人の命が途絶えても役割を誰かに引き継いでいけばいいだけだ。生命としての命は続くことになる。

想像してみてほしい。東京ドームのステージでスターが熱唱している。スターを取り巻く観客は4万人である。この数の観客に対してたった一人のスターであるが、傍から見ると、もはや一つの有機体のごとく感じられる。ここでは誰がスターで観客かは問題でない。全体で一つである。

もう一つ例えるならば、満員電車の中では立っている人と座っている人がいる。もし自分が立っている人であれば、足腰が疲れるだろう。しかし自分を超えて観察してみると、たまたま自分が立っていたからであり、誰かと変わって座ったとしても疲れる人はいるのだ。座れず疲れてもそれはただ立つ役割だっただけである。

脳は故意に一部しか私たちに活用を許さないのは、生命全体として生きることを教えてくれるためではないか。そしてこれは生命としての役割分担と相互理解というつながりを作るための装置なのかも知れない。

なぜならば、もし一人の人間がすべての脳を使うならば、分担という発想は怒らないからだ。また他人は自分の存在を脅かす敵になる恐れも生じる。しかし一個人は命という限界があるので、いずれ消滅する。ここに生命としての機能が必要になるのだ。

従って長い歴史の中で同時代に生きている者同士は使っていない脳の領域のどこかで結びついているのだ。これは言葉だけではなく、まだ科学では解明されていないもっと神秘的なものだろう。仮にテレパシーと言おう。

このテレパシーは最も原始的なものであり、言葉を使うようになり役割が薄れた。しかし今でも持ち得る能力だろう。またこれは人類のすべての人々に原始的なコミュニケーションとして存在する。それは、NYのディーラーもアフリカの裸族も同様に持っている。

あるいは動物・植物などあらゆる生命に備わっているもののような気もする。そしてテレパシーという原始的なコミュニケーションによって情報は体には確実に届いているが、なかなか脳で感じることができない。実は感じてはいても知覚できないだけだろう。

ヒトの脳の構造は解明していけば単純なつくりなのだが、その機能は未知数なのだ。もし心が十分に満たされている人がいるのなら、彼あるいは彼女の耳には、見ず知らずの他人であろうが、遠く離れた戦場で泣き叫ぶ子供の声は届いているはずだ。

今、人間ができることは、報道という手段を使って戦地や災害地に出向き、そこの惨状を伝えることぐらいだが、人間の使っていない脳領域ではGO THEREしているのではなかろうか。

No.11 12月23日は天皇誕生日ではないよ。お袋の命日だ。

部屋のドアの前に置かれたカップラーメンはもう十分に伸びきっていました。お袋が食べなさいと言って置いてくれていました。それ以上の記憶はもう薄れてしまっていますが、その時は何かに腹を立てていて、お袋に八つ当たりしていた記憶だけが残っています。

もう世間はクリスマス気分。しかしこっちは浪人の身でどうもそんな気分にはなれなかったのでしょう。そんな年の暮れ近くでした。お袋が突然他界したのです。かけつけた親戚連中が煩わしく、彼らを尻目にそっと抜け出し、原チャリにまたがって街に出たのを覚えています。長崎の町はどこもクリスマスイブでした。

その時初めてクリスマスは何だろうと考えたのでした。つらいクリスマスがあることを初めて知りました。やがて3回忌を過ぎるとお袋の命日を忘れることのほうが多くなりました。そして自分の家族を持つと毎年クリスマスを祝いましたが、クリスマスが過ぎたあたりに、ふと思い出したものです。

世の中は戦争が途絶えることはありません。またテロも起こります。身近では、いじめ、ネグレクト、DV, パワハラ、セクハラと、どうも私たちは性悪説を支持していたほうが無難なようです。弱肉強食は自然の摂理なのだからです。そして私も母の命日を忘れる薄情な息子です。

また人は皆、自分の欲の限界を知らないようです。きっと人間の欲は永遠に満たされることはないのでしょう。そして、それぞれの欲のぶつかり合いが様々なコンフリクトとして現象化しています。しかし一方で、欲がなければ人も人類も生き続けて行くことが出来ないのも事実なのです。

私は考えます。もし一時でもたとえ一瞬でも、すべての欲が満たされたと感じる時があったなら、その時、人は自分にも他人にも優しい気持ちになれると。その時はきっと、私たちは他人に優しいまなざし、優しい声、優しいしぐさで、接しているはずです。

さっきまでとは違う生き物に生まれ変わるでしょう。私はキリスト教信者ではありませんが、キリスト教を否定することもありません。ただクリスマスを祝う気持ちがあるだけです。クリスマスはきっとそんな気持ちにさせてくれる日なのでしょう。

今日、12月23日は天皇誕生日、いやお袋の命日です。そして明日はクリスマスイヴ。

世界中の人たちにメリークリスマス。

No.10 日本の与党と野党

日本人は血縁関係と土地を大切にする民族である。これは日本の家族形態に起因するのだろう。いわゆる、直系家族で長子を大切にし、親の権威が大きいことによる。兄弟を平等に扱うことは日本では「たわけもの」(田を分ける)と言われる。

一方アングロサクソンは親の権威は弱く、兄弟を平等に扱う核家族型の家族形態である。そのため自由を最も尊ぶ民族となり、近代の成長に最も貢献した。日本の家族制も最近これに近くはなってきたが、長子が親の権威を引き継ぎ、土地・家業にとどまる「一所懸命」の精神は伝統として残っているのではなかろうか。

小選挙区制は1994年の細川内閣時に与野党の二大政党制を目指し作られたが、民主党政権の失望によって形骸化された。しかし土地と血統を大切にする日本は、大昔から小選挙区制だったのだ。血統を重視し、正当の血を引くリーダーの登場を時間をかけて待つ民族でもある。

そのため与党野党の政権交代は世代交代的な要素を持つ。日本史の中の政権交代も二大政党を軸に行われてきた。その二大政党とは平氏と源氏だった。源氏は比較的長い期間の与党政権を担当し、日本の安定を守ったが、安定のバランスが崩れると平氏が現れる。

野党が政権をとるために動いた最初は10世紀の平将門の乱や藤原純友の乱だ。当時中央から地方に赴任した役人は自分の出世と蓄財しか考えていなかった。それに一喝を入れ、地元の者が地元の政治を行おうとした。いわば大和朝廷成立後、初の地方分権闘争だった。

また、12世紀の平清盛もそうだろう。貴族中心の形式的な政治をもっと即効性のある現場主義に置き換えた。しかし貴族的な政治制度を大きく変えられず、源氏に倒され、平氏一族は西国など都から離れた辺境の地に散らばっていく。そして源氏政党の長い保守政権が続くことになる。

16世紀になって源氏政権を転覆させる者が出てくる。平氏を祖とするの信長だった。が、これも短命に終わり、源氏政党の江戸幕府が265年続くことになる。平氏の血を受け継ぐ家臣を多く持つと予想される西国の武将たちによって幕府が終わるのを待たねばならなかった。

明治政府は白人世界からの圧力を抑制するために、平将門がもたらした地方分権を東京に集中させ小選挙区制を奪いとった。近代の風は近世の町人文化を都市文化に変え、武士と民の社会構造を、官僚、財閥、皇室、軍などの権力と国民・大衆へと変えた。

敗戦後、アングロサクソンは長年続いた封建主義が日本を戦争に向かわせたとして、彼らが認めたのは官僚と大衆だけだった。そして自由という新しい風を吹き込んだ。戦争の疲れと敗戦という精神的ダメージを受けていた日本社会はアメリカのもたらす自由主義を神のようにあがめることになる。

一夫多妻や一夫一妻制の直系家族は、高度成長とともに一夫一妻制の核家族となり、バブル経済後は離婚を繰り返す多夫多妻のアメリカ型核家族に変貌していった。日本の与党野党の二大政党は今まで血縁と土地によって作られてきた。もはや日本には平氏が出てくることはないのか。

No.9 たけしのいいところ、悪いところ

ビートたけしと言えば、日本人で知らないものがいないくらいの芸人だろう。芸能界で世代を超えて人気を持つ者はそんなにいるものではないからすごい。さらにすごいのは、お笑いだけでなく映画、TV討論とオピニオンリーダーとしての存在感もある。まさに世界の北野なのだ。

私が彼のことを一番尊敬しているところは世界の北野ということではない。彼は人間の「弱さ・甘さ」を誰よりもよく知りぬいているところだ。彼はやくざ映画を多く作った。勝手に察するに、彼は男気の世界を描きたいというより、自分勝手で自分に甘い人間を描きたかったのではないか。それが「やくざ」という世界だ。

人は誰も見てなければ、拾ったお金を持ち逃げするだろうし、捕まらないと思えばひき逃げもすれば、窃盗、脅迫、場合によっては人殺しも平気でやるかもしれない。そもそも人間とはそんなものである。性悪説というよりも、人はそもそも誘惑に弱く、自分に甘いといったほうがしっくりくる。

だから、犯罪は起こり、そうゆう人たちが集まり組織化したものが、「やくざ」なのだ。自分に甘く、弱い人間が集まって、最高のパフォーマンスを上げるために必要な組織のコア部分に「暴力」がある。

やくざ一人は自分に甘く、弱い人間であるだろう。そこに暴力という力関係がないと、もう何もできない連中なのだ。それをたけしは見抜く。かったるいなと思ったら、学校や仕事を休むし、腹が立てば怒鳴り散らす。弱いものも見ると徹底的にいじめる。

もちろん、どんな人でも苦労は嫌だし、少しで暖かく、楽な方に流れるのは自然である。明日は仕事出ようと思っていても、朝になると寒いし会社行くのが嫌になる。そんな当たり前の気分をやくざ映画で表現したかったのではないか。

結局、弱い人間や自分勝手な人間を動かすのは「暴力」という魔力を使わざる得ない。やくざの世界でも大数の暴力を効率よく動かすためには、「仁義や人情」という大義名分が大事になる。その部分だけでやくざを形容するのは早合点である。暴力を覆い隠すための錦の旗にすぎないからだ。弱い自分を捨て暴力を選択するは、昔からかっこいいものだ。たけしは、それをむなしく描いている。

暴力のある世界はもちろんやくざだけではない。国家間・国家内暴力も実は原理はたいして変わらないということを知るべきだ。人間の自由を一番否定するのが暴力だからだ。もちろん自由とは自分に甘い・弱い自由もある。自由がはびこるとそうゆう世界になりやすい。

仕事したくない(自由だ)から、生活保護もらう。しかし仕事しない奴は死ねばいい(暴力)という議論にも当てはめて考えることができる。社会の文化的・経済的許容度にかかるが、自由か暴力かの二者択一しかないとしたらどちらを社会は選ぶだろうかが、究極のテーマになる。政治学とは暴力をできるだけさけ、自由を守るための学問だろうが、結論はない。

結論を言えば、自由をとるか暴力を認めるかということになる。みんなだらしなくやっていいのか。暴力もありの緊張感のある世界がいいのか。どちらを選択するのかという極端な議論がたけしの映画にはあるのではないか。

アングロサクソンの議論はもう少し複雑である。アメリカは自由の上に銃使用がある。自由のためには暴力の自由もあると認められている。人権を守るために、暴力は必要であるとフランス革命は示した。人権のために暴力を正義として認めるとは、白人は宗教戦争から基本は何も変わっていないのだ。

長くなってが、最後にたけしの嫌いなところは、引き際が悪いというところだ。これだけ能力があるのならTVは後輩に任せて、もっと違ったことやればいいのにと思うのは私だけかもしれないが。才能豊かな人間に嫉妬してるだけかもしれない。

No.8 理解と共感

15世紀半ばあたりから大航海時代が始まる。その原動力になったのは地球は丸く動いているという地動説だった。だから陸路のサラセン、イスラムを通らずに、海はインドにつながっていると夢見たヨーロッパの男たちは、大海に乗り出した。

しかしキリスト教会は地動説を否定する。ガリレオは最後に撤回し火刑を逃れるが、ジョルダーノ・ブルーノという修道士は火刑に処せられた。日本ではちょうど天下分け目の関ケ原の合戦の年だった。この男は自説を曲げず死を選んだ。火の中で悲鳴すら上げなかったという。立派というほかはない。

そう言えば、古代ギリシャでもこのような男がいた。無知の知を説いたソクラテスだ。これも潔く毒殺によって処刑された。この修道士にしろ哲学者にしろ、すごい頭脳を持っていたためか周りの皆は馬鹿に思えただろう。一方周りは理解不能であり、彼らは狂人にしか見えなかっただろう。

理解するというのはどうゆうことだろうか。例えばどちらも見えないが、幽霊は理解できなくても、地球が丸くて動いていることは十分に理解できる。なぜだろうか。それは「共通知」があるからだ。言語を含む文化も共通知だ。そもそも、これがなければ、どんなすごい画期的なことや、ましてはただの事実すらも我々は認識し理解できないのだ。

国民としての共通知を図るために義務教育を近代国家は作った。また昔から専門家同士の認識理解のための専業専門教育があった。ただ、これらを超えた分野で互いに理解しあうことは残念ながら難しい。師弟関係とはまさに師匠が考えていることが理解できるかの修行過程なのだ。

したがって共通知がなければ、天才的な新学説はだれも理解出来ない。どんないい技術でもその場では全く分からないだろう。まして画期的な新企画も誰もいいとは思わないし、新デザインや芸術作品も評価されまい。実は理解とは非常に幅の狭いものである。

それをお前らバカだから理解できないと思うこと自体間違っている。まして、俺は正しいと言って死んでいくのはお門違いのような気もする。ガリレオのように、自分は正しいと思っても、誰も理解できないのだから、私が間違っていましたという男の方がよっぽど潔いのではないか。

自分がどんなに正しくても、周りが理解できないのならば撤回する謙虚さが大切だ。それぐらい理解とは共通知に支配されていることをまずは知る必要がある。なぜか。そもそも知識とは人間が作り出したものだからだ。自然科学といっても自然現象を観察して作り上げた知識に過ぎない。もっと言えば、科学もそれはすべて幻想であり正義ではないのだ。共通知が宗教から科学に変わったにすぎない。次に科学から何かに代わる可能性だってあるのだ。

知識はすべて人間の幻想、作り上げたことであり、それは互いの共通知によってのみ理解できるにすぎない。したがって共通知が少なければ、お互いの理解範囲は限られてくる。しかし、人間にはこれを超えるものがある。それは知識の世界でなく、感覚の世界にあった。

感覚はそもそもみな同じものであった。ほとんど共通した感覚を持っているため、共感が常に可能となる。なぜなら、遺伝子が知識自体を作ることは出来ないが、動物としての感覚を生むことは遺伝子に組まれている。ならば、5万年ほど前からほぼ同じ遺伝子を持つ人間同士は、同じ感覚を持つのだ。だからどんな人間でも基本的に共感が可能なのだ。

それがいつの間にか、遺伝子で引き継がれず、誕生後ため込まなければならない知識量が増えてしまったためにか、お互い、考えが違えば感覚も違うような錯覚に陥ってしまうのだ。そもそも知識とは人間の感覚をより高めるために生み出された道具に過ぎなかったのが、いつの間にやら感覚を麻痺させるようになった。それぐらい知識とは強い幻想によって作られている。

むかし、教育も大して受けておらず、字も書けなかったような母親のほうが、世の中をよく見ていて、子供をどう育てなければならないか的確に判断できた。そういう事例はたくさんある。今日、これらは牧歌的な哀愁で語れることのほうが多い。しかし本質はここにあるのだ。

No.7 人生はゲームではない、浪花節だよ人生は

電車で座っていると、学生が乗り込んできて、ガチャガチャと小型ゲーム機のボタンを押している。うるさいなと思って横を見ると、社会人であった。もう夢中といった感じだった。点数を取ったりと勝ち負けがあるのはたとえパチンコのように景品がなくても面白いのだろう。

一方で、世の中は、やれ会社経営とか事業、受験、はたまた恋愛・結婚など成功したの失敗したのと騒々しい。なんでも成功はうれしいものだが、ちょっとでも躓くと、もう人生終わりだなんて思ったりする。が、他人の失敗はなんかうれしい。また私としては何度となく人生終わりだと思っても、まだのうのうと生きながらえているのも妙な話なのだが。

そもそも成功とは何なのだろう。失敗とは何なのだろうか。ある定性的な目的のために定量化された目標があって、ある一定の期間でそれをクリアしたか、しなかったかにすぎない話である。設定時点では、きっとその人にとってその目標は人生で通過すなければならない大きなる通過点なのだろう。

しかし成功失敗の判断は、設定期間と設定目標の結果で決めるだけである。場合によっては目的と目標がごっちゃまぜになってしまっている場合もある。本当に目的は明確で、目標設定は間違いなかったのか。そもそも受験合格や恋愛成就は目標であり、目的ではなかったのではないか。

私は医者になりたかったので、何度も医学部を受験したが、駄目だった。今思えば、あと何回か受験してもよかったなどと思うが、今となっては医者になることが、目的ではなかったような気もする。これも心理学的合理化思考ではあるが、結果がともわない以上そう考えていいのではなかろうか。

大事なのは目標ではなく目的である。しかし、人生の目的などそう簡単には見つけられないかもしれない。もし見つけられるとすれば、それはミッションといえるものかもしれない。これが見つかれば本当は失敗など全く恐れるに足らずだろう。

だってミッションを持ったヒーローはどんなに失敗しても、くじけない。またミッションの途中で死んじゃったら、死んじゃったで英霊にもなれる。ミッションは数量化された明確なものでもないし、結果自体もそんなに明らかなものでもない。また本人にしてみれば、どんな偉業を作ったとしても、なんかやったかなと思うぐらいなのだ。ミッションとはどんなに成功してもお陰様ぐらいの気持ちしかないものだ。

ミッションは一人歩きをしやすく、仲間も増やしやすい。ミッションを持つと、猿、キジ、犬などの支援者や応援者が出てくるからヒーローになるだ。そして次の世代に受け継がれやすい。いずれにしろ、いろんな人のライフスタイルや人生に大きな影響をおよぼすものとなる。だが、誰もそう簡単にミッションなど見つけられないから、目標というものがあるのだろう。

ただ、目標の成果に一喜一憂するのはゲーマーだけでいい。目標に届かなければ、失敗したことになるが、それはそれで学びの種を探したことになる。それを気づきさえすれば、失敗は思った以上に多くのことを学ばせてくれるものだ。すべてを自分のせいにして、打ちひしがれている場合ではない。

人生はゲームではない。またミッションはそう簡単には見つからない。しかし、灯台下暗し。結構、ミッションや目的は、浪花節の中にあるのかもしれない。人生はゲームではなく、浪花節だよ。ってか。

No.6 外国語を学ぶということ

英語を習得するのはさすがに大変である。日ごろ使っていないから、なかなか覚えられないし、覚えてもすぐに忘れる。若くもない。しかし、なかなか覚えられないからといって、試験があるわけでもないし、趣味として楽しみながら勉強するのだと思えば、焦りなど全くなくなる。英語で外人と話さなければならないこともあるが、基本はスマイルで、あとはどうにかなるしイ。

英語の音は嫌いではないが、ヒアリングが昔から大の苦手である。どうも英語を聴く力はそもそも自分には備わっていないとこの歳になってやっと自覚した。ニュースなど聴こうとしても、実際のところまったくわからない。ただ、文字は、何とかなってきた。英字新聞の見出しがすんなり入って来るようになればいいか。

英会話のテキストの内容程退屈なものはない。聞き取れない上に、取り扱っている英語もこころ打たれるものがなかったりして、志を持ってもすぐ飽きる。やはり、それなりのものが読みたい。

と、思っていたら、いいのがあった。Z会の速読速聴・英単語Advance1100だ。英語の雑誌などを読むとまだ知らない単語がたくさんあることに気付く。学卒以来、初めて目にするような単語を勉強するのにちょうどいいテキストだ。

おまけに、内容が文化、経済、政治、法律、科学とそこそこのレベルの話になっているし、知らないことを学べたり、自分の考えを整理するような議論があったりで、充実している。英語を勉強するというより、英語を使って学べるというところがうれしい。英語のための勉強はもうこりごりなのだ。

面白いと思えば次の夢も描ける。ゆっくりゆっくりやっているので、1冊終わるのに、1年以上かかるが、これが終われば、人文科学と自然科学関連のZ会英語を勉強するつもりだ。すべて終わるのに何年かかるかわからないが、まあいいではないか。

そもそも言葉とは、母から伝えてもらう文化だ。言葉は人類が使用するに至ってから今日まで、母親を通して伝わってきた。それを考えると、どの国の言葉にも歴史や家族愛などの重みを感じる。いわば遠い遠い時代の母親と唯一繋がっている文化なのだ。

使っている言葉から自分の祖先の母親はどんなひとだったのかと思いめぐらす。また、その母親がいなかったら、今の自分もないのだと考えると、母の文化は命の根源でもあるような気になってくる。だから言葉には「魂」があるのだろう。

母がいない外国語を学ぶとはそうゆう意味でも難しくて当然なのだ。だいぶ前だが、日本に来ている留学生の日本語弁論大会に出席したことがある。言葉がうまく通じず困った話とか、バイトやって怒られた話とか、みんな大変のご様子だった。他国の言語を学ぶのにストレスなく、学ぶ方法はないのだ。言葉のストレスを超えて魅了される文化を日本はどれくらい持ち得ているのか、ふと気になった。

No.5 私が感じる神とは

宗教では神が存在する。いや神なくて宗教はありえない。もともとどの国も神とは土地土地で生まれたものだから、ムラからクニと土地が広がるにつれ神様も増えていくものだ。やがて日本は八百万(やおろず)の神が存在するようになった。

ギリシャのような小国ならば八百万でいいのだろうが、ローマのごとく、他民族までかかえる大帝国となると一つの共通する神の存在が必要となる。法律だけで統治するなど基本的にできない話だからだ。これにうまく乗ったのがキリスト教だったのだろう。

ローマ人にとって、山とか海とか森とか分けのわからぬ多くの神を信仰する者たちは、どうも下等な人種・民族のように思えただろう。あるいは一神教でも主義のことなる宗教は統治に邪魔だ。

やがて、大航海とともにヨーロッパ人は来日して布教を始めることになるが、新しい文明にさぞかし日本人は驚いたことだろう。見たこともない新しいことこそ、「新」=「神」だったのかもしれない。日本人は古いものをどの民族より大切にするが、新しいもの好きでもある。

日本人はアドベンチャー的なリスクの取り方を良しとしないが、新しいものを自分たちの生活に取り入れようとするくらいのリスクは好んで取る。というより、民衆は1000年近く、ほとんど何も変わっていない生活様式に飽き飽きしていたところに、面白いものが来たのだろう。

領主に統治されている「民」から「大衆」が生まれる起爆剤になりえたのかもしれないが、ただちにこの一神教は幕府に禁止された。民のエネルギーは江戸の民衆文化に受け継がれたが、民が大衆になるためには明治の「国民」を経験してからだった。私は鎖国がなければ、明治以降の日本はもっと変わったものになっていたような気がする。

話がそれてしまったが、テーマである「神」とは何か。我々が普通に考える神とは八百万神であったり、仏とか、キリスト教、ユダヤ教、最近ではイスラム神であったりするわけだ。でも私の神はこの中にはいないような気がする。最も信じるとすれば八百万かもしれないが。

私が神を定義するとすれば、この宇宙の中に見出す。最も身近に感じられる「神」だからだ。量子力学では多次元も存在するようだが、人間には感じられない。人間が見ることのできる次元は、見えているこの世が3次元で構成され、さらに時間というもう一次元追加された4次元の世界だ。

私にとって神とは、この4番目の次元、つまり「時間」なのだ。分かりやすくいえば、昔よく教科書を使ってやったが、教科書の隅っこの2次元という空間に絵を描いた。そして、それをちょっと変えてなんページも連続して書いていく。最後、ぱらぱらめくると絵が動き出すという世界観の中にある。

実際は静止している3次元の世界があって、それをぱらぱらめくっていくことで、ものが動き、時が流れる。実に時間とは不思議な存在だ。この時間こそが神のような気がするのだ。ぱらぱらめくる動きは速くなったり、遅くなったりしているのかもしれないが、3次元を常に変化させている。

言いかえると「神」とは諸行無常なのだ。そして神を感じるとは、日常生活の中で自分が体感してきた時間が、例えば30年の出来事が凝縮されて感じるとき。あるい自然の中では、生まれる前、あるいは死んだ後の出来事が凝縮された形で、風景となって見えたり、葉っぱの緑だったり、海の青だったりを感じるとき。「神様は存在する」と自然と納得するのだ。誰かが私の中で、急速にぱらぱらめくったり、やめくりをやめた瞬間だ。

ならば、この世の4次元を構成する「時間」が「神」であり、今がこの時とかこの瞬間とか、あるいは昔のことが一瞬戻ってくる時、何か神を信じたくなる。いや、神の存在を知る。突然、偶然も何か時の仕業みたいに感じるときがある。いずれにしろ、一神教が正しいというのではなく、勝手に神をさがせばいいだけなのだが。

No.4 日本海海戦と仕事

砲弾命中率の高さを誇っていた明治の大日本帝国海軍は、日本海海戦の戦闘開始後、終盤になるまで、勝っているのか負けているのかわからなかったそうだ。日本軍側の戦艦にロシアの砲弾が着弾する。その爆音と揺れはすさまじかっただろう。鉄板にあたって炸裂する音だけでも脅威だったろう。

一方でロシアの戦艦のダメージは、煙と水柱は見えても、被害状況が全く判断つかない。前線で戦っている水兵たちはこちらばかり被害を受けていると感じたそうだ。いや将校連中も似たようなものだったろう。

仕事も同じである。実に一歩一歩進むのはたやすいように見える。が、この一歩程難しいことはないのだ。この一歩は実に小さい。だから、この小さい一歩がなんの成果になるのかと思うことがある。二、三歩進んでも、進み具合が見えないし、ひどいときは一歩一歩進んでいるようには感じられず、後退しているような気になってくるときも多々あるものだ。

ここのところの「こらえ性」が一番大事なのだろう。よく若い時に仕事で相談すると「功を焦らず」という先輩の言葉が戻ってきたのを思い出す。今思うと、ああこうゆうことだったのかと思ったりする。大切なのはやっぱり一歩一歩だ。カメは偉いな。